笠井新也①百年前「卑弥呼は箸墓に眠る」

日本の歴史

「卑弥呼は、第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)=日本書紀)で、纒向遺跡の箸墓古墳に眠っている」。
今から100年も前に、この説を日本で初めて考古学雑誌に発表した人がいる。その人の名は笠井新也(かさいしんや)。なんと徳島県の高校教諭である。
私は2011年の現地見学会以来、毎年のように桜井市纒向学研究センター主催のシンポジウムに参加してきた。
その中で何度か「笠井新也」という名前を聞いた。考古学者の白石太一郎氏は「今日の箸墓古墳の考古学的な詳細から考えると、戦前に提示された笠井説は、まさに卓見である」とまで言い切られている。

100年前に日本で初めて発表
平成25年(2013)に開催された特別展「HASHIHAKA―始まりの前方後円墳-」の解説書(財団法人桜井市文化財協会発行)には、笠井新也の業績として、こう書かれている。
「箸墓古墳の築造や被葬者に関することについて、最も早い時期に言及したのは笠井新也である。邪馬台国畿内論者であった笠井は(笠井1922、1923)、魏志倭人伝に描かれた卑弥呼像が日本書紀に記された倭迹迹日百襲姫命の事績と類似していることを論じ(笠井1924)、倭迹迹日百襲姫命の墳墓とされる箸墓古墳こそが、卑弥呼の「冢」である説を提示した(笠井1942)」
「今日的な評価を考えると,笠井が提示した箸墓古墳の位置づけは、正鵠を得たものであったということができるだろう」

笠井の足跡を訪ねて徳島へ
笠井新也が、これらの論文を書いて発表したのは、母校の徳島県立脇町中学校の教諭に着任後の、大正から昭和時代にかけてである。
昭和31年(1956)に73歳で亡くなるが,教育畑一筋に歩んだ人生であった。
笠井に会いたい。そんな思いに駆られて、とうとう笠井の母校である徳島県立脇町高校を訪ねることになった。平成26年(2014)11月のことである。
脇町高校「芳越同窓会」の新居文和事務局長が対応して下さって、1130ページにおよぶ「脇町高校百年史」をみせていただいた。
名門高校の歴史が詰まっていた。
「良かったら差し上げますよ。笠井先生の業績が書かれてありますから」と、見送って下さった。
(敬称略、写真提供/桜井市教育委員会=以下次回に掲載)

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