昼は人が作り、夜は神が作る
笠井の最後の論文は昭和17年(1942)に考古学雑誌第32巻第7号で発表された。大正13年(1924)以来、実に18年ぶりのこととなる。
「或事情の故に」と笠井は詳しく説明していないが、笠井の第四論文「箸墓」は、いわば“だめ押し”の解説である。
卑弥呼の墳墓について『魏志』はこう書いている。「卑弥呼以死、大作冢。径百余歩。徇葬者奴婢百余人」
笠井の指摘はこうだ。「その墳墓がいかに壮大であり、その築造が如何に大工事であったかは、この文によって想像されよう。『是の墓ハ日ハ人作リ、夜ハ神作ル』とある。神の援護なくしては完成し難いとまで、当時の人を信ぜしめたほど大工事であった」。
墳墓を崇神紀から引用
「故レ大坂山ノ石ヲ運ビテ造ル、則チ山ヨリ墓ニ至ル、人民総踵ギテ、手ヲ以ッテ逓伝シテ運ブ」とある。いかに多数の人民がこの役に使用されたかが想像される。
試みに、石材の逓伝に要した人民の数を想定してみる。
まず箸墓の所在地は現在の奈良県桜井市箸中である。大坂山は旧北葛城郡二上村(現在の奈良県香芝市と大阪府南河内郡太子町にまたがるエリア)。
両地の距離は直線距離で約4里10町。道路の迂回を考慮して、その1割を加算すると約4里25町となる。1間に2人宛て配するとすれば1里に432人、総計2万280人となる。
石材の逓伝運搬に要した人数だけでもこれだけになる。
日本書紀で墓に関する記載は箸墓だけ
そして、笠井は最後をこう締めくくった。
「『魏志』における卑弥呼の冢墓に関する記載は、支那史籍中、倭人の墳墓築造に関する唯一の特殊的記載である。我が『日本書紀』における百襲姫命の御墓に関する記載も唯一特殊の記載である」
「されば卑弥呼の冢墓とは、いわゆる百襲姫命の御墓である箸墓を指したものである」
「すでに年代の一致あり、人物事跡の一致あり、また墳墓に関する記載の合致を見る。卑弥呼すなわち百襲姫命であることは決定的である」(墳墓構造に関する志・紀の記載)。
箸墓の造営の作業員は135万人
2014年3月16日に、桜井市立図書館で開催された桜井市立埋蔵文化財センター開館25周年記念シンポジウム「箸墓再考」で基調講演に立った福永伸哉大阪大学大学院教授は、箸墓古墳の築造に関して次のような試算を発表している
推定される投入労働量は、纏向石塚古墳が4万5000人(盛り土は1万㎥)に対して箸墓古墳は135万人(30万㎥)と桁違い。労働力の動員規模や組織化でも以前とは質的に異なる仕組みが生まれた。(1日2,000人と推計)
これらから、箸墓古墳の築造をもって約350年間にわたって倭人社会の覇権を維持し続けるヤマト政権の成立と理解する。それはまた「古墳時代」という新しい時代の始まりでもある。
黙々と教師の道を歩む
『回想・芳越』のなかに、教育者として笠井新也の像が当時の生徒たちに記録されている。
あだ名は「ぼっちゃん」。「人間味あふれた勉強家で、あんなにも勉強しなければならないのかと驚いた。生徒に対する作文指導を厳しくやられ、学問生活が生活全部ではないかと思われる方でした」。
だが、脇中で教鞭を執りながら、精魂を傾けた古代史研究などの話は(日々の授業では)全く出てこない。子息に「倭人」という名前をつけるほど、古代史学に身を置きながら、高い学識を生徒に誇り語ることもなく、黙々と教師の道を歩んだのである。
(敬称略、矢吹晋教授の解説を引用、笠井新也の章は終了します)
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