笠井新也④卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命

日本の歴史

大正13年(1924)に笠井が発表した「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命」。
それまで卑弥呼については、古来九州の女酋とする説と大和朝廷に関係ある女性とする説の2つの主張があったが(前年に考古学雑誌第13巻で大和説を主張)「邪馬台国が大和であったことが明らかになった以上、「九州派」の女酋説は当然撤回されるべきである」として、「しからば、大和朝廷関係の婦人の中で、誰をこれに擬すべきか。これが最後の問題である」。
そして「卑弥呼は、我が上古祭政一致の時代における宗教的女王であって、常に祭祀を事として、神意を奉じて民衆を服せしめた。その生死の年月は明確ではないが、魏の景初2~3年の頃にはじめて魏に遣わし、正始8~9年の頃に死んだことが知られるので、その年代も略略推定される」とした(魏志に現れている卑弥呼)。

卑弥呼と崇神天皇
そして、卑弥呼が生きた時代を国史の中から探り当て「これをわが国史の年代に引き当てるときは、あたかも崇神天皇の御代にあたることは余輩の信じて疑わないところである」と断じる。
その上、笠井は崇神紀から倭迹迹日百襲姫命についての記述を引用してこう説く。
「倭迹迹日百襲姫命は、崇神朝第一の女傑であって、その神意を奉じて奇跡を行い、未然を識って反逆を看破する等、当朝の信頼と畏敬とを受けるに十分であったに相違ない」
「その勢望の帝王をも凌駕する有様であったことは、その陵墓築造の大規模であったことによっても想察される」
「さればこの命を以て『魏志』にいわゆる卑弥呼に擬することは決して無謀ではなく、大いに理由のあることと信ずる」(日本書紀に現れている倭迹迹日百襲姫命)

卑弥呼はヒメミコト
笠井は次いで『魏志』における卑弥呼についての直接的記述の意味をこう説く。
(1)「名曰卑弥呼」(名は卑弥呼という)
卑弥呼はヒメミコトの義で、わが古代における高貴の婦人に対する尊称である。
倭迹迹日百襲姫命は孝元天皇の皇女で、崇神天皇の叔母。その御名の語尾に「姫尊」の語を含んでいるのは、卑弥呼の名称によく一致している。
(2)「事鬼道、能惑衆」(鬼道をこととし、よく衆をまどわす)
この一句は卑弥呼の個人的特質を現したもっとも重要な記事である。
卑弥呼は常に神威をかりて宗教的奇跡などを行い、以て民衆を畏服、信仰せしめたことを指している。倭迹迹日百襲姫命もまた一種の神女であって、時々宗教的奇跡などを行い、一般の尊崇・信仰を受けていた。
国民が災害のために苦しんでいる際に、神明憑して、神の教を宣伝したり、能く未然を識る能力を以て、国家の危難を予言した。その墳墓は、昼は人が作り、夜は神が作ったといわれるのも、その墳墓が非常な大事業であった事を示す。
(3)「年巳長大 無夫婿」(年すでに長大なるも、夫婿なし)
卑弥呼は神に奉仕する身であるから、信仰上、結婚を敢えてしなかった。倭迹迹日百襲姫命もまた神に奉仕する身として、結婚若しくは子孫に関する記載がない。「為大物主神之妻」とみるべきではない。
(4)「有男弟 佐治国」(男弟ありて、国をたすけおさむ)
卑弥呼は専ら神に奉仕して神意を伺い、国家統治の実務は別に男弟が会って、これに当たるという。倭迹迹日百襲姫命の場合、国家統治の実務に当たったのは崇神天皇である。天皇は命の弟ではなく甥に当たる。
(5)「自為王以来 少有見者、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入」(王となりより以来、見ること有る者少なし、ただ男子一人ありて、飲食を給し、辞を伝えて出入りす)
倭迹迹日百襲姫命が神女として神に奉仕している以上、かくもあっただろうことは、想像に難くない。
(6)「居処宮室、楼観城柵厳設、常有人持兵守衛」(宮室、楼観、城柵を厳かに設け、常に人ありて兵を持ちて守衛す)
卑弥呼は常に宮殿に居住して千人の侍女にかしづかれ、外には城柵を巡らし、楼閣を設け、警衛はなはだ厳重であるという。「楼観城柵」の如きは、文字通り解釈すべきではなかろうが、威儀、威勢の盛んなことは察しられる。

※倭迹迹日百襲姫命の場合、直接これらに対比すべき記載はないが、その墳墓築造の大工事であったことを考えると、その宮殿の如きも、相当に大規模であったと思われる。すでに年代の一致あり、今また人物・事跡の一致あり、両者の一致はこれだけに留まらない。
(敬称略、矢吹晋氏の解説を引用。写真は安田靫彦画伯・滋賀県立近代美術館)

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