笠井新也③邪馬臺国は大和である

日本の歴史

笠井新也が、大正11年に発表した「邪馬臺国は大和である」論をもう少し詳しくみてみることにしよう。横浜市立大学の矢吹晋教授が、平成19年発行の「國學院雑誌第108巻第9号」に掲載した「笠井論文の解説」をもとに補足資料を交えながら展開を試みる。
(1)地名の一致
邪馬台国の推定を試みるにはまず地名の一致を標準におかねばならない。大和(ヤマト)が語音上「邪馬臺(やまと)」と一致する。
(2)遺跡の一致
邪馬台国は倭王の都するところ。当時倭国の中心地であった。大和は戸数7万の繁栄地として格好である。古墳その他の遺跡にも富む。
(3)行路・工程の一致
邪馬台国の位置を推定するには行路・工程が一致することが重要な条件である。『魏志』の記述のうち帯方郡から奴国までは定説通り。問題はここからだ。

日本海航路をとった理由
ここから先は「水行20日」の船旅となる。この場合、南を正しいとすれば、邪馬台国は琉球付近の海中に没する。それゆえ南が東を指すことは明らかだ。
最も重要なのは投馬国の比定である。日向、薩摩、筑後など九州に求めようとするのは、「南、投馬国に至る」の南に引きずられたものだ。
笠井は、不弥国の津屋崎(現在の福岡県福津市、旧宗像郡)から舟は日本海沿岸にそって出航したとする。大陸からみれば日本海こそが内海であり、海賊の危険のある瀬戸内海よりは日本海コースを選び、投馬国は「出雲」に比定すべきだとした。
出雲を経て敦賀で上陸し越前、近江、山城を経て、陸行1月を費やして大和に入ったと考えたのだ。
例えば、大加羅国の王子・都怒我阿羅瓦斯等(つぬがあらしと)は出雲を経て敦賀経由で大和に入った(垂仁記)。仲哀天皇や神功皇后の征西は、敦賀経由でこの行路を逆行している。
当時、越前敦賀は大陸文化の輸入基地であり、畿内の北門・港湾であった。

「投馬国=出雲」説の根拠
(1)『魏志』にいう「戸数5万」は出雲以外には想定しにくい。
(2)この地方が大陸との交通の要所であった。
(3)『魏志』は不弥国―投馬国間を水行20日。投馬国―上陸地間を水行10日としているが、津屋崎・松江間は約110里、松江・敦賀間は約70里であるから2対1の比例は保たれている。
(4)投馬の「投」の古音は「ヅ」であり、投馬は「ヅマ」である。「イヅモ」の「イ」は母音の発語で音が軽いから自然に省かれ、しかも「マ」と「モ」は相通ずるから、出雲・投馬の両方の地名は全く一致する。
(5)出雲は、上古において北海航路の寄港地であった。
(敬称略、以下次回に掲載)

コメント