笠井新也②中学教師が独創的な新学説

日本の歴史

「脇町高校百年史」には、笠井の功績が詳しく紹介されている。
笠井新也は1884年(明治17年)徳島県の旧美馬郡脇町で生まれた。1902年(明治35年)に脇町中校を卒業して、同年9月に国学院大學高等師範部(国語・漢文・歴史学)に入学して、同大学を主席で卒業した。
卒業後、徳島に帰り徳島県立高等女学校教諭となり、その後、長野県立上田中学校教諭に転勤する。この上田中学校時代に古墳研究に出合い、熱中した。
そして考古学や古代史研究への思いは強くなり、ついに上田中学校を退職し、1916年(大正5年)に東京帝国大学で、徳島出身の考古学者・鳥居龍蔵の指導を受けることになる。
京都帝国大学でも考古学研究を深めるが、母の死と父の隠居で1919年(大正8年)には母校の徳島県立脇町中学教諭に着任するのである。

立て続けに、新説の論文
学校では国語・漢文・国文法教育に携わり独学で独学で考古学・歴史学研究につとめ、たて続けに下記の3つの論文を発表するのである。
(1)「邪馬臺国は大和である」(1922年=大正11年 考古学雑誌第12巻第7号)
(2)「卑弥呼時代における畿内と九州との文化的並に政治的関係」(1923年=大正12年 古学雑誌第13巻第7号)
(3)「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命」(1924年=大正13年 考古学雑誌第14巻第7号)
驚くべきは、この独創的な学説が、およそ大学その他の研究機関と無縁で学閥の背景をもたぬ田舎中学校の一介の教師によって成し遂げられたことである。

投馬国は出雲である
笠井新也の学問的業績について、藤井宏文学博士(旧中30回卒)が「笠井新也先生の学問的業績を讃える」という頌徳文(脇町高校芳越歴史館所蔵)で、次の3点を挙げて評価している。
第1は、「漢委奴国王」の金印について石棺内副葬品説を提唱した。
第2は、「邪馬台国=大和説」であり、従来の瀬戸内海水行説をとらず、投馬国を出雲に比定し日本海航行説をとり、越前敦賀に上陸、陸行1月、邪馬台国=大和に至るとしたこと。
第3は、倭人伝にいう女王卑弥呼を『日本書紀』における「倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)」であるという学説を、他の学者に遙かに先んじて唱導したしたばかりでなく、卑弥呼の墓が箸墓古墳にあたると比定し、考古学上においても邪馬台国=大和説を採用したことである。
(敬称略、資料提供/徳島県立脇町高等学校=以下次回に掲載)

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